なぜ乃木坂46は今、戯曲『三人姉妹』に挑むのか

 

誰が何を問うか、そこに意味はどれだけ孕んでいるのか。

 

 

 

 

 

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博品館劇場にて上演されている『三人姉妹』、やっとの思いで鑑賞

 

キャストの演技やらストーリーの細かいところやら感想については、すでにいろんな人が語っていると思うんで、今回は別の視点からみた『三人姉妹』について

 

タイトル通り、なぜ乃木坂46は”今”、戯曲『三人姉妹』に挑むのか

 

 

 

けど、そもそものストーリーを教えてくれ、と

そこについてはWikipedia...ではなく、ぜひ原作戯曲を読んで欲しいかな

 

ワーニャ伯父さん/三人姉妹 (光文社古典新訳文庫)

ワーニャ伯父さん/三人姉妹 (光文社古典新訳文庫)

 

 

もちろん、あらすじや登場人物程度ならWikipediaで把握ができる

でもまぁそれが完璧、なんてことはなく、具体的にどういう思考を持っているのか、どういう関係なのかはやっぱり原作が一番(それはそう)

また、舞台上で状況説明がされることはあまり無い

加えて、”名前の日”など前提としてあるものの説明も殆どされない

日本では馴染みのないロシア帝国時代の文化の説明も、手元にある訳本では為されている

そういうところも含めて、ぜひ原作戯曲を読んでもらいたい

と言っても、割と読みづらい戯曲だとは思うので、舞台の鑑賞前後など合わせて読むのがオススメ

 

 

 

さて、なぜ乃木坂46は今、戯曲『三人姉妹』に挑むのか

この戯曲は、それぞれがそれぞれの望みや悩みを抱えその顛末に対して疲弊していく、そしてこれからの人生との向き合い方を考えていく

抱いていた希望は絶望へと変わってしまう

そこから問うものは、ざっくり言うと、”絶望の中で生きていく意味とは?”

そんな話に、なぜ乃木坂46が選ばれたのだろうか

 

 

終盤、オーリガの台詞にこんなものがある

「やがて時が経つと、私たちも永久に忘れられてしまう。私たちの顔も、声も、何人姉妹だったかも、みんな忘れられてしまう」

現在のアイドルシーンの最前線をひた走る乃木坂46が、忘れ去られる存在である三人の姉妹を演じることに対する意味の大きさは、推し測ることができる

 

乃木坂46が今絶望の中にいるかと考えてみると、ソトから見ている限りではそんなことは無いだろう

むしろ希望の中にいるだろう

では、これから絶望に襲われてしまうのか

10年後、20年後、30年後、、、100年後、、、、、

乃木坂46は世間からどう見られているだろうか

オーリガ、マーシャ、イリーナ同様世間に忘れられてしまうかもしれないのだろうか

どうなるかは誰にも分からない

その上でどう、生きていくのか

そもそも生きていく意味はあるのだろうか

衛藤美彩に、伊藤純奈に、久保史緒里に、他キャストに、乃木坂46に問う理由は十二分にあるだろう

そして、そこから通じて観客に問う理由も十二分にあるだろう

 

 

乃木坂46チェーホフの戯曲『三人姉妹』に挑むことに孕むものは無限にあるだろう

アイドルという指標が他の芸能より分かりやすいものを用いることで、作品の根底にあるものをより引き立て、観客に対しより力強く伝えられると考える

その受け取り方は人それぞれであるが、同じ受け取り方はおそらく無い

そして、人に対し与えるものは大きい

また、初演から100年経っても色褪せない『三人姉妹』は、その題材としての機能を最大限発揮しているであろう

この挑戦は、有意義で価値があり多くの問いを多くの人に提示するものになると確信している

 

 

 

 

 

戯曲『三人姉妹』との邂逅は、乃木坂46のアイドルとしての可能性を大いに拡張するものであることは間違い無い

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(おわり)