戯曲『あゆみ』と出会ったけやき坂46の20人は、誰でもない誰かに為らなければならない(のか)

人生とは___の連続である

 

 

 

 

 

けやき坂46による舞台『あゆみ』観て来ました

 

チームカスタネット、チームハーモニカとそれぞれ

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チームカスタネット

 

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チームハーモニカ

 

 

 

このチームがどうとか、誰の演技がどうとか、そんな話は今回もしないです

 

赤澤ムック氏による演出についての話

 

 

その前に、そもそも戯曲『あゆみ』とはどういうものなのか

 

劇団ままごとを主宰する柴幸男氏による戯曲で、2008に初演

その後も、何度か変更を加えながら、再演され続けており、

2014年に柴氏がはじめた、《戯曲公開プロジェクト》により、無料公開されてます

www.mamagoto.org

 

書籍に収録されているverとは異なると注意書きされてますが、

今回、けやき坂46が演じたverは無料公開されているものがベース

 

 

 

ついでに、《戯曲公開プロジェクト》について

 

戯曲というものは誰かによって上演されないと意味がなく、

戯曲を書いた人も上演されることで劇作家と呼ばれない、

じゃあ無料で公開して多くの人の目に触れることで上演機会を増やそう!

というような感じではじまったプロジェクト

 

 この無料公開が主にどういう団体に作用したかというと、中学生や高校生、大学生が中心となる学生演劇

実際の上演については要連絡・要相談であるものの、稽古やワークショップでの使用は無料という素晴らしい環境の提供がされてるため、学生演劇界隈の多くがこのプロジェクトの恩恵を受けている(と勝手に感じてます)

 

特に戯曲『あゆみ』に関しては、学生演劇にとって良い点が多いという印象があります

キャストについて、最小上演可能人数が3人であったり、複数人1役を前提としているため、誰が誰を演じても問題ない、すなわちキャストに関するハードルがかなり低い

さらに、戯曲そのものの構成も学生演劇向け

悪い言い方をすると、人生におけるエピソードの羅列で構成された舞台のため、どこかのエピソードを抜いて上演されても基本的に問題はないわけで

全63エピソードのうち、特に伝えたいことを重視したエピソードのみを選んで上演することも可能であり、元々の戯曲にはない主人公の人生=エピソードを付け加えて上演することも可能

つまり、かなり自由度の高い戯曲なわけです

よって、大会等で上演時間等に制限がある場合でも、この戯曲は選択肢に十二分に入ると

演出についても、学生演劇で多いものは、上手・下手への移動およびキャストの入れ替えというシンプルなもの

各年齢、各年代ごとのエピソードをそれぞれ演じるため、全く演じ方が異なっても不思議とつながってしまうわけです

より専門的な段階に入る前に、技術を問わず演じることで、演じるという行為を楽しめるのではないのかなと

 

 

ざっくりと、戯曲『あゆみ』についてでした

調べたら調べるだけ面白い話が出てくると思うので、興味があれば是非に

 

 

 

個人的に、比較的学生演劇に興味があるため、過去何度か戯曲『あゆみ』を観たことがありました

いろいろな学校・団体による演出を見た上で、今回の赤澤演出について感じたこととかを適当に書いてみます

 

まず、AiiA Theaterの客席に入ってすぐ目に入る、輪状のステージ

少なくとも、過去の他の『あゆみ』では見たことのないもの

先述の通り、上手から下手、下手から上手、という直線的な移動がほとんど

ある意味 ”固定概念”のようななものでした

 

幕が上がると、あぁ、そう展開していくのかと

ぐるぐると時計回りに進んでいく

これは、今までに観たどの『あゆみ』よりも人生というものを色濃く押し出しているなと

人生はひとつの流れの中に存在する、輪廻あるいは流転するという要素がどストレートに表現されているということをひしひしと感じる

赤澤ムック凄まじい

 

 

次に目を引くのは、キャストの入れ替わり方

それこそ”固定概念”の中では、キャストAが上手の袖から登場し下手の袖へと消えていく、と同時にキャストBが下手の袖から登場し上手へ、、、といったように、ある程度話が進むと、常にキャストが入れ替わることで複数の”あゆみ”が同じ板の上に存在することはまず無かった

 

しかし、赤澤演出版は違う

ステージ輪状部分で歩きながら、時に立ち止まりながら、他の"あゆみ"を介しながら入れ替わっていく

キャスト10名は常に舞台中央の窪みに居て、セリフがある時は輪状の部分と上がり演じる、セリフが終われば舞台中央の窪みへと戻っていく

これはいろんな効果を生み出しているなと

もちろん、常に観客にみられるという状況によりキャストに緊張感が生まれている

しかし、これによる真の効果は別にあるように感じる

舞台中央の窪みという空間は【"あゆみ"の心】だと考えている

次の出番を待機しているすべてのキャストが常に"あゆみ"であり、輪状部分で演じられる、別のキャストの心情を反映しなければならない

常に"あゆみ"のことを考え、"あゆみ"の心となるということは、次の自分なりの"あゆみ"に対するアプローチが変わってくることもあるだろう

人生は常に変化するという意味を深めているように思える

 

正直に言うと、この入れ替わり方が分かりにくいところが一部あった

しかし、それ以上にこの入れ替わり方が持つ意味が強いと思う

流動的要素の強い動きこそ、時や人生をできるだけ可視化しているように感じた

 

あとは、各キャストへのセリフの振り分け

ある程度自由に演じることが出来る戯曲ではあるものの、キャストそれぞれに近い要素を持ったセリフや状況等々をうまいこと振り分けているな、と

ここに関してはチームごとに比較して観てみると面白い

 

 

とりあえず、観ながら思ったことをバババッと書いてみました

 

もっともっと語りたいことはあるものの、言語化するのが難しい←

 

 

 

生から死へ、人生を描いた作品であるからこそ、それぞれの人が感じるもの、感じる部分は異なる

普遍的な物語であるからこそ、誰の胸にも届き、自身の過去・現在・未来と重ね合わせることで大きな影響を与えることになるだろう

だからこそ、いろいろな人にいろいろな戯曲『あゆみ』を観て欲しい

ここだけでは終わらずに

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ”あゆみ”とは特定の誰かではなく、誰でもない誰か

”あゆみ”とは自分かもしれないし、隣にいる君かもしれない

人生を歩んでいれば、誰でも気づいたら”あゆみ”になっていて、物語の主人公になっている

戯曲『あゆみ』で誰がどう”あゆみ”を演じようが、”あゆみ”は”あゆみ”としてその板の上に存在する

 

 

 

 

 

おわり