"演じる"という嘘の向かう先

"演じる"ということは命を削るということ、今この瞬間も

 

 

 

 

 

 

僕は、役者でも、演出家でも、演出部でもなんでもないしただの妄言(かもしれない)

流し見して何か引っかかれば面白いね

 

 

 

"演じる"ということは、この世の全てのものに対して嘘をつくことだと思っている

 

観客に対してはもちろんだし、共演者にも、スタッフにも、

世の中や自分にさえも嘘をつかなければ、演じることは出来ない

と考えている

 

 

なぜ、そんなにスケールの大きい話になるのか

 

まず、"演じる"にあたって前提にあるものは、それまでの人生において全く接点のない誰かを自らの中に落とし込むこと、だと思っている

役者に対して"全く接点のない誰か"は役として与えられ、その役にならなければいけない

その役もといその誰かに"なりきる"というだけでは不足していて、その誰かに"なる"ということをしなければ、誰かを自分としなければ"演じる"ということには繋がらないだろう

 

誰かを自分とする、ということは当たり前だが難しい

それはもちろん、自分と誰かとでそもそもの性格や人間性、生き方が全く異なるからである

では、どうやってそこに持っていくのか

 

イメージとしては、これまでの人生の上書き

これまでの人生観や人間性を忘れ、新たな人生観や人間性を"誰か"になるように構築していく

そういった意味では"演じる"ということは、全てを忘れるという命を削る行為が伴っていると言えるだろう

自らのこれまでを否定し人生に嘘をつくという重荷を背負わなければ、"演じる"ということには繋がらないだろう

 

瞬間的に"演じる"ということも、もちろん可能ではあると思う

しかし、常に演じ続けることにより、"その誰か"は"その誰か"ではなく"その人"として、映画ならスクリーン上に、舞台なら板の上に、当たり前のように存在することになるだろう

 

 

 

自らの人生に対して嘘をつき、別の人生を受け入れることで "演じる"ということに繋がると思う

 

台詞を上手に言える、動きが繊細、間の取り方が上手い、

そんな目で見て、耳で聞いて受け取れるものだけで"演技が上手い"と言うのは何か惜しいと思ってしまう

 

受け取ったものの先に、その人物の人生や人間性、感情を何も遮るものなく感じられたとき、その演技に対して何か動かされればと考えている

 

だからこそ演技というものは深くて面白い

 

 

 

みんなが一斉につく嘘を全員で、全力で受け入れることにより真実に変え、その現象を楽しみたい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おわり